無自覚に形成/洗脳された盲信できる価値観
「~すべき」「~の方が絶対良い」「~が当然だ」「~が最低限の礼儀だろ」人にはそれぞれ、“正しいこと”と“許せないこと”がある。ほぼ必ずと言って良いほど、この“正しいこと”は他人と合致しない。「Aは確かにそうだけど、Bは違うと思うなー」と言った感じ。夫婦ですら「~は絶対許せない!」が存在する。これが熱を帯びると自分の「正義」を守ろうとする。だから諍いを生じる。抗争や紛争が起きて、戦争でどちらかを滅ぼすことになる。
「誰に従うのか」「誰を守るのか」「何が必要なのか」「誰が悪なのか」は、それぞれの「正義」であり、常にユニバーサルではない。でも人は「正義」を旗印に戦うことができる。「正義」を信念として掲げて個人の「座右の銘」としたり、ナショナリズムなどのコミュニティパワーを盛り上げる材料に使うこともできる。
無神論者で日本教徒(神道ではない)の自分から言わせてもらうと、そもそも絶対的な「正義」はこの世に存在しない。振舞われた食べ物は残すべきではない日本と、残した方が礼儀正しい中国。個人主義を尊重する欧米キリスト・ユダヤ思想と、家族(共同体)主義を尊重する東アジアの儒教思想。旧約聖書のエレミヤ記では「父が酸っぱいぶどうを食べても、息子の歯は浮かない。人はそれぞれめいめいの罪で死ぬ」と書かれているのに対し、孔子の論語には「父が馬を盗んだら、子はそれを隠すべきだ。それが家族だ。」とある。広い視野で見てもこれだけ違うのに、ミクロの世界、個々人レベルで言ったら合うわけがない。
それなのに、人はなぜ“正しい”という感覚を持つのか。それは小さい頃から両親や先生に教わったこと、友人とともに見てきたことに由来する。
親に説教されて泣いた日、「食べ物は好き嫌いしないことが正しい」と知る。
特撮ヒーローに憧れた日、「アンパンマンは正しい」と知る
先生に怒られた日、「時間を守るのが正しい」と知る。
・
・
・
・
これを繰り返して、それぞれに正義が形成されていく。tabula rasaが洗脳されていく。“洗脳”という言葉のイメージが悪いとしても、“属している社会”が悪と判断された場合、“洗脳”と言わざるを得ない。
属する社会が洗脳していく過程は現在に始まったことではなく、ヒトが社会性を持った頃から起こっていたことだ。でもその頃の「正義」はもっと独善的で食欲、性欲、睡眠欲に近かった。だから、今よりも他者と相いれないものだっただろう。これを統制したのが、権力(暴力)だ。力の強いものが正しく、弱いものの正義は成立しない。「正義」は力の強い個人に拠るところとなった。懸命な強者は“法”を定め、経験的に「正義」を積み上げ、体系化した。法によって明文化された「正義」が現れたのだ。
しかし、強者が入れ替わるごとに「正義」がブレる世の中は、社会機能を維持することができない。だから、強者よりももっと偉大な絶対的な存在が「正義」を唱える必要があった。それが神。あらゆる人類を超えたところにいる神が聖書を通して、人類に「正義」を伝えた。神によって、絶対的な「正義」が成立したと思われた。だが、地球という星は一つの神がカバーできるサイズではなかった。国土の拡大や戦争、新大陸発見の度に別の神が現れて別の正義を振り翳す。人はそれぞれ、自分が信じる神の「正義」の名の下に「誰を守るのか」「何が必要なのか」「誰が悪なのか」を再定義して戦うことになる。
少し壮大な話になったが、マクロに語ると「正義」は権力->法->神と色々な定義手法が試みられてきたが、未だに一つに纏まることはない。「平等」「平和」「友愛」という美しい普遍的に見える言葉もあるが、「誰を守るのか」「何が必要なのか」という話になった時、全く意味を成さない。
少しミクロな話をすると、「捕鯨が悪だ」というのも“正義の一形態”。「トランプ政権のアメリカ第一主義」も“正義の一形態”。「ISISのテロは悪だ」も“正義の一形態”だし「米英は石油を確保するために中東国家で戦争を煽る悪だ」も“正義の一形態”。もちろん「中国人は態度が悪い」も“正義の一形態”だ。
これらは、価値観の世界の話である。「誰が正しくて、誰が間違っている。なぜならば~だから!」。“~”に入る言葉は「誰を守るのか」「何が必要なのか」につながることがほとんどだ。
つまり、色々な経緯で成立した「正義」は自分(または自分たち)が生活し易くなる方向に持っていく「価値観」であり。“悪”を設定することは「価値観」を押し付けることと同義なのだ。
ここでもう一度言うことができる。
絶対的な「正義」はこの世に存在しない。
しかし、姑息ではあるが、争いを避ける手段はある。事前に契約書面を交わすことだ。契約対象に関して事前に想像し得る争点の解決手段を定めておくことで、争いを避けるのだ。契約書を定めることで、友人や家族など、近しい存在との抗争を避けることができるケースもある。
*契約書も法の下でしか機能しない場合が多いことは認めざるを得ないので悪しからず。
以上から、「正義」は「価値観」であり、問題解決の糸口にはならないこと。裁判官などの「正義」の番人も、そこに人を置く限り、個人の「価値観」を判断基準から完全に取り除くことはできないことを認識しておきたい。(と、言いつつもある国家に属し、税金を収めている以上、その国家の描く平和を支える「正義」に守られているのであって、その「正義」たる法に従わざるを得ないわけだが。)
従軍慰安婦問題も徴用工問題も、いくら契約書面があったとしても正義の番人が機能しないのであれば解決の道がないことは良い例だ。
だからもし、「正義」を論じてくる人と争いになった場合は、「価値観」の押し付けであることを把握した上で、そこを指摘するか、感情的な議論にゴールはないことを理解させた上で物事を進めるのがよい。
「正解」がある問題であれば、「正義」を棚上げして、数値的な「前提」を定めた上で「正解」に従えば良い。結果を待てるものであれば、「正義」を棚上げして、結果を見てから議論した方が良い。