恭賀新年

新年、明けましておめでとうございます。

日頃、弊社とお取引を頂いております皆様、KIFFをご利用頂いている皆様に感謝申し上げます。

2023年は、株式会社フィナンシェにて執行役員CPOとして、IEO(Initial Exchange Offering:暗号資産取引所における新規暗号通貨上場)および、日本国内における法律に準拠した新規暗号資産の発行・運営に従事してまいりました。

本業務を通して、ブロックチェーンの可能性と現状の限界を感じ、web3が目指す悲願達成にはまだ多くのハードルがあることを身をもって認識しました。

また、2023年末をもって、私個人はフィナンシェを退職しており、2024年はまた新しいことに挑戦してまいりたいと考えております。

話は変わりますが、年末に少々『武士道』に触れる機会があったので、こちらの学びと、それを受けて2024年の目標について記します。

私が読んだのは、以下です。

少し偏りがあると認識しております。また、山本常朝の葉隠原文は読んでおりませんし、五輪書は現在中盤を読書中です。

その上で、自分が印象に残った部分と感じた内容について書きます。


一、人の命は目的達成のための道具である

武士道と云(いう)は、死ぬ事と見付(みつけ)たり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付(かたづく)ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。

山本常朝『葉隠』

これは、武士には(その先天後天に依らず)使命があって、それを達成するために死ぬことは重要な手段の一つであるということを説いていると理解しています。

従って、その使命達成の重要な局面で死ぬことを恐れて失敗することはあってはならないのだから、日々その心持ちで精神を磨けということです。

逆にいうと、死によって達成されたことは、その人の命の価値です。可能な限り大きな価値に自分の命を代えられるよう、主君に精神誠意仕えることの大切さも語られています。

武士道は封建制の世の中で用いられた精神なので、自分の命は主君の目的達成に使うことが最大の目的となります。言葉を選ばずにいうと、女王のためには何匹死んでも厭わない蜂や蟻の共同体の機能に少し似ていると感じています。

洗練された社会構造の中にありながら、生物としての究極の本能を磨くという意味で、僕の中では非常に魅力的な精神思想です。

自分の命が道具であるとした時、現代日本において「主君」は誰なのか。特定の個人というよりは、所属している共同体と考える方が納得感があります。家族・法人・国家・地球人類。広義に取れば取るほどその主君の顔は不鮮明になり、命を懸けて目的を達成しようという気持ちにはなれないのが本音ですが、このバランスを追求していきたいと考えるのが今の自分です。

この、死に関連してとても印象的な引用をもう一つ以下に挙げます。

本気にては大業はならず。気違ひになりて死狂いするまでなり。

山本常朝『葉隠』

二、”いざというとき”と”今”を分けて考えるな

そのいまと、いざというときを二つに分けて考えているから、いざというときに間に合わない。

『葉隠』(知的生きかた文庫)奈良本辰也(翻訳)

「いまというときが、いざというときである、いざというときは、いまである。」と書かれていました。

いつかのために力を蓄えているのではない。今この瞬間が今まで目指してきた「いざ」という時だ。という心持ちであれということです。

だから、以下のように振る舞いなさいと教えています。

  • 「チャンスを逃さないという能力」の重要さを肝に銘じろ
  • ダラダラせず、七呼吸のうちに判断せよ
  • 困難にぶつかったら大いに喜べ。高い波を超えるから、より強くなる
  • いつでも死ねるように、毎日死んでおけ(死ぬほどの困難窮地を具体的にイメージしておけ)

また、一生のうち、無駄にする時間は一瞬たりともないことを上手く語っている部分もあります。

只今の一念より外はこれなく候。一念々々と重ねて一生なり。

山本常朝『葉隠』

一瞬一瞬の積み重ねが一生なのだから、それがわかれば、一瞬も無駄にする時間はない。常に自分にこれで良いのか(真剣勝負をしているか)を問えるはずだということです。

自分の命の価値は、すべての瞬間が反映されて決まる。今この瞬間にも上がり下がっているわけだし、残り時間は減っている。だとしたら、今どうするのか。この瞬間の価値を考えよ。ということだと理解しています。


三、平和は享楽で人を平和モードにする。猛き者は常に戦場に近いところに居る

「平和は男性を女性化させる」という記載が複数ありました。確かに、男女の生物的な差はいくつもあれど、社会生活において大きな差となるのは”物理的な力”です。

力が衝突する戦争状態であればこの力は共同体を守るのに重宝され、高い徳を以て執行されれば誰もがそれを頼りにします。しかし、現代日本のように戦争からかけ離れ”物理的な力”を必要としない社会において、これは無価値です。力を求めなくなった男性は自分の価値を示すために別のスキルに集中します。経済力や流行・色気やファッションに心酔し、男性の”力”は発揮されなくなっていく。このような事態は現代に限らず、江戸時代や古代ローマなど世界中の歴史の中で繰り返されてきたことのようです。そして、これによって共同体は弱体化し、辺境の戦争状態にある”猛き者たち”に侵略され滅ぼされていきました。

これを踏まえて現代日本は「男性が女性化している」状態であることを自覚し、且つ、中東アラブの一部・イスラエル・ウクライナ・ロシア・中国・ミャンマー・北朝鮮などの”猛き者たち”が力を磨きつつあることをも認識しなくてはならないと感じました。

日本人が武士道の猛々しさを取り戻すのは日本という共同体が消滅の危機に瀕し、それを克服する機会を得ることができたらということになると思います。もちろん、得られなければ滅ぶだろうと思います。


四、武士道は、高尚な倫理道徳を持つ徳の高い生き方だが、商業には向かない

近代以降の資本主義は、唯物論的なものの見方と功利主義的な判断軸が浸透し、武士道のような「徳」を重要視する行動規範はその求心力を失っています。これは日本に限ったことではなく、資本主義経済圏の先進国の多くに当てはまると考えています。

武士道は、神道・仏教・儒教・陽明学の4つの要素が合わさって成立したものだとされています。それぞれが各地で国家共同体を維持するための倫理観を体現するために練り上げられたものであり、大雑把にまとめてしまうと徳の高い振る舞いを善としていることが共通しています。

しかし、この「大きな力を持つものは、己の欲に執着せず、弱きものを助けて、国を治める。」と言った思想は商業に適用することはできませんでした。商取引においては、弱きものを助けるよりも、自分の利益を確保することが重要です。利益を確保するためにはどんな残酷な真実をも契約によって固定する必要があります。算盤・会計で利益を図り、騙されないように細かいことを指摘しなくてはなりません。

明治維新の四民平等の流れで、刀を奪われた多くの武士が没落していったのは、自然な流れで、岩崎彌太郎が特殊な例であったと思います。また、渋沢栄一も武士ではありましたが、農家生まれの商人です。

つまり、武士道は戦闘体制の国家においては素晴らしい精神だが、資本主義国家においては機能しにくいということです。(機能しないとは言いません。渋沢が「我欲に執着せず、国家のために事業を興せ」と言っていたことや、彼の功績を見ると、儒教(武士道)的な精神が資本主義にもプラスの影響を及ぼしているからです)

個人的には、戦時体制ではなくとも倫理観として武士道は身につけるべきだと思います。「徳」はギスギスした商業の駆け引きの潤滑油になると考えるからです。また、一方で商交渉という戦いの場においては、武士道に拘らず、一歩も譲らず狡猾に相手を取り込む術も身につけておきたいです。この戦い(商交渉)においては「”いざ”という”今”」の「チャンスを逃さず、七呼吸のうちに判断できる」瞬発力が活かせると考えます。


以上、今年の目標としては

  • 会計を細かく理解し、小さくとも常に利益を確保する
  • 一瞬一瞬が一生の構成要素であることを肝に銘じる
  • 「今死ぬか、行動するか」を判断軸として中途半端に立ち止まらない
  • 「チャンスを逃さない」瞬発力を持つ

以上です。長文にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

本年もよろしくお願いいたします。

代表 木村仁

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