“既知の前提”の上に成り立つイデア
数学や自然科学における「正解」は、あらゆる“既知の前提“の上に成り立っている。これは、ある種プラトンのイデア的な世界の話であり、現実世界には存在しないものだ。
しかし、ソクラテスの無知の知に沿って「現実世界には存在しないもの」であると批判すると、自然科学が帰納的/演繹的に導き出してきた学説というツールの一切を使えないことになってしまう。
両者を繋ぐのは「ラプラスの悪魔」か「アリストテレスの中庸」だ。
「ラプラスの悪魔」は“既知の前提“のみならず“未知の前提“を含めて寸分違わず察知し誤差のない計算によって、あらゆる「正解」を導き出す。「ラプラスの悪魔」が存在すればプラトンのイデアは成立するし、ソクラテスの無知は打ち砕かれる。
「アリストテレスの中庸」は”既知の前提”の誤差や未知の部分を容認しつつも、目の前にある情報を元に可能な限り「正解」に近づける考え方だ。“既知の前提”には限界があるのでイデアの世界は成立し得ないが、そのことを認識しながら(無知とわかりながら)「正解」に接近しようとする。
この中庸が現実路線であり、現在の自然科学の進歩を担っている。
数学や自然科学に限らず、「“既知の前提”を元に『正解』に近づける手法が現実的であること」を認識することは重要だ。“既知の前提”と言っても個々人の知識というレイヤーで言えば、その守備範囲は一致しない。それぞれの“既知の前提”レーダーチャートは誰一人として合致し得ない。そんな“既知の前提”を武器にして、イデアではない世界で“目標”を獲得するために立てるあらゆる仮説は、不完全なものだ。それがビジネスの仮説であれ、人間関係の仮説であれ、結果が出るまで「正解」か否かはわからない。
- “既知の前提“は関連パラメータのほんの一部にすぎない
- 定性的なアプローチをパラメータ分解するには客観性が不足している
- 時間的制約によってあらゆるものは変動する
- 他者の他案件のアプローチの影響を受けることは多い
最終的に、仮説の正否は結果が出るまでわかり得ない。
そして結果を見ても、事前に正否条件を明確に定めて置かないと結果の正否すら判断できない。
「美味しい」「うまくいく」「儲かる」「あるべき姿になる」「正義は勝つ」は定性的な要素なので、正否は“人”によって、“時”によって、“場合”によって、それらの掛け算によって無数の評価が可能になる。これを避けるためには可能な限り、正否条件は可算数値で定めておいた方が良い。
正否条件を誰が見ても判定が一致するようにしておくと、後々の無用な議論を減らすことができる。
以上から言える教訓は、仮説の段階で実行する/しないを判断してはいけないということだ。仮説の中で現れるリスクは“既知の前提“の下でしか機能しないリスクである。つまり、無限の未知のパラメータを考慮していないのだ。そんな“近視眼的“で“視野の狭い“、“ステレオタイプ“な判断軸で可能性を潰してはいけない。
実行するかしないかの判断軸は「実現」しようとする情熱である。